小説家・二階堂黎人のプロフィールです。
[仕事の依頼について]
(1) 仕事(原稿)の依頼に関しては、メールでも、電話でも、FAXでも、適当な手段であればお受けします。あえて会う必要のないものは、時間の節約のために、そうした文明の利器を使って行ないましょう。もちろん、直に会って打ち合わせをする必要のあるものまで拒否するものではありません。ただ、ここ3、4年、体調がすぐれないため、夜の打ち合わせや、遠方での打ち合わせは実質的にできない場合が多いのをご承知ください。
(2) 仕事を依頼される場合などは、必ず、原稿料や謝礼の額を提示してください。金額によって仕事を受ける・受けないを決めることはほとんどありませんが(下記を参照)、そうしたことを事前に相手に伝えるのは礼儀であると考えています。
(3) 現在は、本格推理小説に関すること、この分野を盛り上げることを中心に仕事をしています。ですから、そうした点を踏まえた依頼であると(つまり、私が楽しんで仕事ができる条件が整っていると)、喜んでやらせていただくことが多いかと思います。
(4) 敬称について。私の名前を呼ぶ時には、「先生」ではなく「さん」でお願いします。「二階堂さん」でけっこうです。
(5) 「原稿執筆依頼書」と「出版契約書(日本推理作家協会推奨)」のPDFファイルを用意しました。ダウンロード(あるいはブラウザで閲覧)して印刷し、必要事項を記入して利用してください。
「原稿執筆依頼書」IRAISYO.pdf
「出版契約書(日本推理作家協会推奨)」KEIYAKUSYO.pdf
(6) メールは次のところへ送ってください。仕事の依頼のメールも大歓迎です。
(スパム、ワーム対策のため、メールアドレスはリンクを切ってあり、また、画像となっています。上のアドレスまでメールをください。また、フリー・メールなどは、着信拒否になっている場合があります)
二階堂黎人(にかいどうれいと)
プロフィールひな形
二階堂黎人(にかいどうれいと)
1959年東京都生まれ。長野県在住。90年、第1回鮎川哲也賞で『吸血の家』が佳作入選。92年の『地獄の奇術師』でデビュー。主な著書に、名探偵二階堂蘭子を主人公にした『聖アウスラ修道院の惨劇』『悪霊の館』や世界最大の本格推理小説『人狼城の恐怖』4部作、水乃サトルを主人公にした『奇跡島の不思議』『智天使の不思議』、幼稚園児ハードボイルドの『私が捜した少年』などがある。最新作は、『巨大幽霊マンモス事件』など。
手塚治虫マンガの収集家であり、大学時代には手塚治虫ファンクラブの会長をつとめていた。手塚治虫に関する著作としては、評伝『僕らが愛した手塚治虫』シリーズ5作などがある。
歴史
1959年7月19日、東京都の渋谷に生まれる。
1歳。中野に転居。
3歳。国立市に転居。
3歳。国立市東区の《ママの森幼稚園》に入園。お絵かき教室に入る。
5歳。国立市立第3小学校へ入学(反省会で必ず名指しされる問題児であった)。
8歳。夏休みの宿題代わりに、初めての小説『クワガタ・ルックの冒険』を書く。ポプラ社の南洋一郎訳のルパン全集に夢中になる。
11歳。手塚治虫のマンガを集め始める。意識して集め始めた最初の本は、小学館ゴールデンコミックス『鉄腕アトム(4)』。この年の終わりに、初めて神保町へ本を探しに出かける。
12歳。国立市立第1中学校へ入学。
12歳の夏。突如、江戸川乱歩に夢中になる。
14歳。手塚治虫ファンクラブ東京へ入る。一ヵ月に一度の《メトロポリス》集会に顔を出す。
15歳。小金井市にある中央大学付属高校へ入学。各古書展へ出入りを開始する。
18歳。中央大学理工学部入学。
18歳。手塚治虫ファンクラブ東京で、会誌を2冊作る。
19歳。手塚治虫プロダクション主宰の《手塚治虫ファンクラブ》が発足し、初代会長を任命される。大学在学中に、会誌の作成や企画ボランティアなどを務める。
20歳。日本麻雀道連盟の初段を得る。
24歳。3月、中央大学理工学部卒業。4月、 某運輸省の外郭団体へ入社。
30歳。第1回鮎川哲也賞において、『吸血の家』が佳作に入選。
32歳。『地獄の奇術師』講談社で作家デビュー。
35歳。12月、某運輸省の外郭団体をを退社。専業作家となる。同じ頃、初めてスキーを滑る。
以下、続く……。
1990年第1回鮎川哲也賞で、『吸血の家』が佳作入選。
1992年に、『地獄の奇術師』で作家デビュー。
『人狼城の恐怖』が、1998年度喜国雅彦探偵小説大賞を受賞。
『人狼城の恐怖』が、1999年度本格ミステリベスト10の第1位に選ばれる。
(って、書くと、何だか偉そうですね)
座右の銘:中道
好きな言葉:名探偵、怪盗
標語:ロジックよりもトリック、トリックよりもプロット
特技:トリック案出と人を騙すこと
様々なこと
- 後の歴史研究家は、僕の大学卒業年を調べて、何かがおかしいぞと疑いを持つであろう。何故なら、僕は大学に6年もいたからだ。と言っても、別に勉強が好きで6年も滞在していたわけではない。その反対である。つまり、落第していたのだ。僕が中央大学付属高校(小金井)から中央大学に入った年に、中央大学は、理工学部を残して、他の学部はすべて八王子へ引っ越してしまった。僕はもともと文学部志望であって、何故かと言うと、文学部には、ヘルマン・ヘッセの翻訳者として有名な高橋健二先生がいたからである。僕は、この人の元で、文学やドイツ語などを勉強したかったのだ。つまり、理工学部などへ入るつもりはなかったということでもある。しかし、家庭の事情で、水道橋にある理工学部へ通わねばならず、かといって、理工学部なんかの勉強はしたくなかった。それで、毎日、神保町あたりで本をあさって遊んでいたのだ。当時はまた、手塚治虫先生のマンガを収集していたから、様々な所で開かれる古書展にも全部顔を出していたわけである。したがって、学業はまったく身に付かなかった。今になってみると、もっと勉強しておけば良かったと後悔している。ちなみに、高橋健二先生には、一度だけお会いした。理工学部の方で公演があって、ヘッセをはじめとするドイツ文学の話を聞いて、非常に感動した。
- 芥川賞作家の多和田葉子氏を御存じだろうか。『犬婿入り』で芥川賞をもらった純文学作家だ。実は、彼女は、僕の中学校時代の同級生なのである。しかし、中学を卒業してからは会ってないし、彼女はドイツに住んでいるから、当分会うこともないであろう。この前、何かの雑誌に載った写真を見たら、中学時代とまったく変わらない顔をしていた。昔から、あのように頭の良さそうな顔をしていたのである(そして、実際に頭の良い人だった)。
- 手塚治虫先生の次に好きなマンガ家は、山川惣治先生である(正確には、絵物語作家・挿し絵画家というべきだろうか)。あの『少年ケニヤ』や『少年王者』などを描き、戦後の少年少女の胸に、夢と希望と血湧き肉踊る冒険心を植え付けてくれたあの大画伯だ。他にも『少年エース』とか『少年タイガー』とか『ノックアウトQ』とか、どうしてこんなに面白いんだ!という絵物語をたくさん残してくれた。少し若い人には、川崎のぼるが劇画化した『荒野の少年イサム』の原作者といった方が通りがいいかもしれない。山川惣治先生にも、一度だけお会いしたことがある。手塚治虫先生のマンガ家40周年パーティーで、手塚ファンマガジンのライターとして、インタビューをした時だ。正直言って、あの時は感動で足が震えた。何を尋ねたのか、ぜんぜん覚えていないほどである。とっても温厚な方だった。その時には、萩尾望都先生にもインタビューさせてもらった。「『スター・レッド』の続編はないのでしょうか」と尋ねると、「ありません」と簡単に言われてしまった。しかし、その短い間の印象を言えば、「この人は人間じゃない。天使だ!」というものであった。今でも本気でそう思っている。
- 『喜国雅彦探偵小説大賞』は、日本で一番権威と伝統のある本格ミステリーの賞である。何と、数年に一度しか受賞作が出ないという厳しさで、僕の『人狼城の恐怖』は、有栖川有栖さんの『双頭の悪魔』以来の受賞だった。こういう賞をもらえるのは非常に嬉しい。