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本格論議のコーナー



 探偵小説研究会の巽昌章氏より、2006年1月15日に、当サイトの掲示板に投稿がありました。そのままでは読みにくいので、本人の許可のもと、このコーナーで全文を公開します。ネタバレ部分等には、本人の意向で反転がかかっています。最低1ヵ月間の公開となります。

【巽昌章氏の投稿】

 この掲示板をごらんになっている皆様へ
 先日、この掲示板で、私の『論理の蜘蛛の巣の中で』に関する言及がありました。そこで、これから、『容疑者Xの献身』は本格でないとする二階堂説への批判を書き込みます。批判の要旨は、以下の三点です。
@ 『論理の蜘蛛の巣の中で』(メフィスト2006年1月号)への非難が、原文の歪曲や文章の無視に基づくこと、その他の不誠実性。
A 『容疑者Xの献身』は本格でないとする議論には、手掛かりの見落としなど、基本的な誤読があること。
B 二階堂説の本格観には「推理とは何か」の考察が欠如していること。
 ここで本格の定義を提出する意思はありません。『容疑者Xの献身』が本格であると断定するつもりもありません。ただ、二階堂説への否定的意見を述べるだけです。恒星日誌にもあるように「ミステリマガジン」で反論企画が準備されていますが、私自身は他の媒体で議論を続行する予定はありません。明白な誤記を訂正する必要でもない限り、掲示板への書き込みも今回だけです。皆様には申し訳ない次第ですが、ご質問を頂戴しても応答はしないでしょう。むろん、私の意見を批判されるのは自由ですが。
つまり、今回の問題を「建設的議論」に発展させたいとは一切考えていないのです。「本格とは何か」は絶えず論じられるべきだし、私も、非力ながらこれまで書いてきた文章のほとんどにこの問いかけを含ませてきました。しかし、このたびの二階堂説と向き合う形でわざわざ議論する必要はなく、今後もどこかよそで別の文脈でやるだけのことだと思っています。
そう考える理由の第一は、元来、自分の立場だの本格の定義だのを表明する必要を認めないからです。おりにふれ、取り上げた対象や主題に応じて、その場で考えたことを述べるのが仕事です。私にとって、本格推理小説がこれまで積み重ねてきた歴史は、海のように巨大な流動する謎であり、自分がおかれている現代的状況もまた謎です。そんな本格の範囲を自己流に区切る必要はない。海の範囲を確定しなくても、海に飛び込むことはできます。漠然と、このへんが本格領域という見当をつけて潜水し、手探りしながら観察レポートを書いているだけのことです。強いていえばその総体が私の「立場」であり「本格観」なのだというほかない。
第二の理由は、本格論にせよ『容疑者Xの献身』の評価にせよ、二階堂説への応酬、対論という形で議論を発展させる価値はないからです。本格推理小説の愛好者として、また、本格がはらむ過去現在の様々な問題に向き合っている物書きとして、私はここに、議論を闘わせるに足る説得力、誠実さ、推理小説の歴史と現状に対する洞察や示唆を全く見出せません。 
そのことを具体的にご説明するため、そろそろ本題に入りましょう。
1−1 『論理の蜘蛛の巣の中で』について
掲示板に書かれた『論理の蜘蛛の巣の中で』への非難については、その基礎となる引用が歪められていることを示しておきます。真意が誤解されたなどというものではありません。原文が書き換えられているのです。
掲示板では、こうなっています(全文は過去ログ参照)
「違和感(本格であるか無いか、何故、重要な証拠を伏せてあるのか等)に本能的、あるいは、直感的に気づいている様子です。ところが、そこから先への考察がない。自分の違和感の正体を子細にさぐることもなく、何の証明もなく、「これは現代の本格だ」などと決めつけています」
ところが原文はこのようなものです。
「『容疑者Xの献身』は、結局立派な現代本格で疑問なしということになるのだが、本当にそうだろうか。」
「決めつけ」どころか、疑問文、それも反語の色が濃い疑問形です。
また、この一文は、『容疑者Xの献身』を本格推理小説の歴史に照らして分析し、そこに複数の歴史的様式が混在していることを指摘した上、そうした複合的作品を書く現代的意義は何か、と論じる一連の文脈の中に置かれています。考察のための自問だから疑問形なのです。前後の文中では、なぜ「現代本格」という言葉を使うのかも一応わかるようにしてあるし、私自身の問題意識に沿って、「自ら推理する読者とトリックの講義を待ち受ける読者」といった形で、本格ゲーム論を視野においた検討も加えています。考察がないのではなく、上記引用部分の前後を通じ、『容疑者Xの献身』を本格として見た場合の考察が、本格史をふまえ、二階堂説とは全く異なる見地から書かれているのです。不十分で言葉足りない考察であるとの自覚はありますが、「ない」はずはない。
このような歪曲は、解釈やパラフレーズの問題ではありえない。むろん、『論理の蜘蛛の巣の中で』に、二階堂説に同調するような「考察」が書かれていなかったことは事実です。だからといって、掲示板の上記書き込みが正当化されるはずもない。考察内容を無視し、疑問文を断定に書き換えたり、自分の説と違う考察が書かれているから「考察がない」などという態度が許されるわけはありません。
1−2 他者の意見に対する侮蔑
 上記以外でも、二階堂説は、他人と議論する資格のないことを自ら暴露しています。たとえば、本格ベストテンで『容疑者Xの献身』に投票した評論家のランクを下げたなどと日誌に書いています。しかし、投票のコメント欄で本格観を詳述せよというのは無理だから、本気で本格論議を求めているのなら、まず彼らに本格観と評価理由の説明を求めてから批判すべきです。まさに議論はそこから始まるし、そうでなければ、評論の活性化などということもありえない。それなのに、議論も何もなく、投票したというだけでいきなりランクを下げる。これは一体何なのか。逆に、投票者が以前にいかなる本格観を表明していたかなどを調べた形跡もない。
評論家の悪口を書いている部分は俗論の典型です。具体的な根拠や氏名を挙げないネガティヴ情報を書く、自分の意に沿わない意見を述べる評論家の「心理」を勝手に創作する、因果関係の判然としない事柄を強引に結び付ける、自分の意見を無視すると本格はだめになるといった類のおためごかしをいう。私はこうした行儀の悪い言葉を憎みます。行儀は、いかに的確に行動するかを律する、自制の技術です。論敵を過小評価したり、脳内で勝手に「悪役」を仕立て上げるような甘えを避け、他者の意見を正確に把握した上で、的確な批判を加える姿勢のことです。『論理の蜘蛛の巣の中で』への非難においてそれが守られていないのはすでに見ました。
むろん、評論家など遠慮なく叩いてよいし、的確な批判ならいくら辛辣であってもかまわない。急所への一撃で倒されるのなら、仕方のないことです。ところが、二階堂説にみられるのは、自制から生まれる辛辣さとは反対の、一方的な思い込みで他人を誹謗しながら、自分は本格への愛情から行動しているのだと言い訳するたぐいの甘えです。
カレーの話はその最たるもので、何ら議論の説得性や分かりやすさを補強する意味をもたない、自分を持ち上げ、他者を貶めるだけのものでしかありませんでした。また、同じ日誌で、笠井氏の反論原稿を見て、笠井氏は『容疑者Xの献身』を本格と認めているが、「本格系評論家が内容をきちんと分析しておらず、印象的感想を垂れ流している点の罪悪について、私と同様の批判を浴びせかけている」と書いています。笠井論文が、本当に「私と同様」なのかは、いずれ皆様もお確かめ下さい。いずれにせよ、笠井説は、『容疑者Xの献身』が本格だといっているのです。当然、基本的視点も大いに違うはずです。単なる評論家バッシングや本格ミステリ大賞の票読みをやっているのでなく、真剣に本格をめぐる評論の活性化を考えているのであれば、笠井氏が他の評論家に批判的かどうかなどより、その議論の内容、深度、本格推理小説に対する視点にこそ注意を払うべきでしょう。仮に笠井氏が『容疑者Xの献身』を高く評価せず、同書を絶賛する評論家に批判的であっても、その視点や理由付けが違えば、二階堂説とはおおいに対立していることになる。批判の理由や理論的射程を棚に上げ、安直に「私と同様」などというべきではない。

2−1 『容疑者Xの献身』読解における見落とし、歪曲
 作品内容を明かしますので、未読の方はぜひ読了の上お読みください。また、特に真相に触れる箇所は、<>でくくって反転させます。
さて、『容疑者Xの献身』は、靖子や石神の側から書かれたパートと、探偵役である湯川や草薙の側から書かれたパートに分かれています。ここでは便宜上、前者を犯人パート、後者を探偵パートと呼びましょう。
同書が本格でないとする二階堂説の主要な理由は、@犯人パートには読者に<犯行日誤認の叙述トリック>があるのに、これを示す手掛かりがない A探偵パートの湯川の述べるところが証拠を欠く想像にすぎず、推理ではない の二点でしょう。ここ(2−1)では、@が手掛かりの見落としに基づくこと、Aに原文の歪曲があることを示します。
(1) 犯人パートの手掛かりの見落とし
上記@については、実際には、手掛かりが伏せられています。
ちなみに、<叙述トリック>は、多くの場合作中の探偵に向けてでなく読者に向けて仕掛けられるため、これを見破る手掛かりもまた、探偵でなく読者だけが気づくように伏せられることが多いのです。
すなわち、<9頁に、石神が朝弁当を買いに来た>とあり、この日の夜に<富樫殺し>が起きたことは以降の記述から肯定することができる。他方、<発見された死体の死亡時刻は10日夜>とされている。ところが、後の捜査で石神は<夜更かししたので、10日の午前は学校を休んだ>と述べ、これは裏付けられている。したがって、素直に考えれば<10日の朝は弁当を買わない>はずで、上記と矛盾を生じ、<富樫殺しは10日でない>ことを推認させる。むろん<学校に行かず弁当だけ買う>可能性がないとはいえませんが、少なくとも、読者が疑問を抱き<日付を誤認させる>トリックの存在に気づく手掛かりとして十分機能しています。二階堂説は、手掛かりが弱いといっているのではなく、手掛かりがない、自分なら文中に埋め込む、といっているので、これを見落としたのでしょう。
これは読者にだけわかる手掛かりですが(この点読者は湯川より有利です)、同様に読者だけの手がかりとして、第二に、途中から<技師というホームレスがいなくなる>ことがあります。第三に、娘が<10日の昼間>クラスメートに「今夜映画に行く」と述べていたとの聞き込み結果が出てきますが、読者には<富樫殺しは偶発的>であって<事前にアリバイ工作はできない>ことがわかっています。したがって<10日のアリバイは本物>ではないかということにもなる。
まとめると、犯人パートで<靖子親子による富樫殺し>が描かれ、捜査パートで、死体の死亡推定時刻が示される。ところが、第一と第三の手掛かりから、<親子の犯行は10日でない>ことが推定されるので<10日死亡の死体は別人>とみられ、これに第三の手掛かりを加えれば結論は出ます。手掛かりがないとは到底いえない。

(2) 「推理」という言葉の見落とし
 次に、二階堂説は、湯川の事件に関する推理について、「湯川が最後まで想像と言っている」といいます。まるで、「湯川の述べているのは推理ではない」という自説の裏づけであるかのように。しかし、これは本文を読んでいればできない断言です。湯川が「想像」といっている箇所はあります(326ページ)が、その台詞は、犯人の内心を忖度しているものですから無理はない。他方、「最後」のクライマックスにあたる348ページでは「僕の推理」と明言しています。二階堂説が、湯川の述べた内容を克明に検討したのなら、なぜこんな明白な記載を見落としたのでしょうか。
ちなみに、名探偵が推理を述べる際「想像」と自称する例は、手近の本だけでも『本陣殺人事件』と『占星術殺人事件』がありました。理由はいろいろです。また、ディクスン・カーのある長篇は、フェル博士の推理を聞いたハドリー警視が、「証拠が全然ありませんが」と突っ込み、博士が「この結論が正しいかどうかは、結局は解決のつかぬことさ」と応じて終わります。本が出てこないのでうろ覚えですが、『フランス白粉の謎』でも、最後にクイーン警視が、「山勘が当たった」と呟いたように記憶します。
要するに、探偵たちが自分の考えを「想像」と呼んだり「証拠はない」といったりするのは、本格ファンならおなじみの、よくあるパフォーマンスにすぎないので、いちいち噛み付くほうがおかしいのです。湯川は別の箇所で「すべては推論で証拠は何もない」と発言しています。しかし、発言時の状況は特殊なもので、その言葉を真に受けていいかどうか自体問題だし、仮に言葉どおり受け取っても、上記の例からみて、湯川の「推論」が本格の「推理」でないという意味にはならない。

2−2 湯川の推理は本格の推理か
(1) 湯川の推理内容と真の問題点
二階堂説は、犯人特定や<死体が別人>であることの手掛かりも、決定的な証拠もないといいます。だから本格でないというのです。別の箇所では三要件の総合評価を唱えていますが、そこで述べられている判断理由も、結局上記に帰着する。
他方、この掲示板でも「仙ちゃん」という方が的確に指摘されていましたが、湯川の行う数々の指摘は、真相の方向を指し示す推理であり、かつ、湯川の説が提示された時点で振り返ってみて、「この説なら湯川の指摘した問題点が解消される」という納得につながるものでもあります。その結果、あまり強力ではないものの推理は成り立つ。<石神は靖子に惚れているのに、事件に無関心を装っているのは不自然>という心理的観察があり、その後の彼の行動はこの疑いを濃くする。また、湯川は<石神の>性格や能力から、考えられる行動の可能性を絞り込み、それを口にする。そのことと、事件に<顔を潰しながら、自転車に指紋を残す><なぜ新しい自転車を盗んだか><燃え残りの服><曖昧なアリバイ>といった特徴的な不自然のあることを指摘しているので、そこから<指紋は身元誤認のトリック>と考え、真相に思い至ることは一応可能でしょう。
とはいえ、証拠から直接かつ一義的に犯人やトリックを割り出せるとは言いがたい。私が手掛かりを見落としているのでなければ、『容疑者Xの献身』の推理には、想像の飛躍や、直観的な決め付けがかなりあります。
しかし、それでよいのです。真の問題は、元来本格の「推理」にはそういう面があるということなのです。二階堂説のように、『容疑者Xの献身』だけをつかまえて、証拠がないから推理でない、推理がないから本格でないなどというのは、これまでの諸作品における「推理」の実態を無視した軽率な議論にすぎません。それは『容疑者Xの献身』への不当な非難である以上に、「本格とは何か」という認識を歪めるものとして、誤りを指摘されなければならない。次に、その点を具体的に考えてゆきましょう。
(2) 手掛かりとは何か
 本格推理小説は、あらかじめ提示されている証拠(あるいは手掛かり)に基づいて論理的に真相を推理する小説だといわれます。これ自体に異論は唱えにくいのですが、抽象的にこの条件を承認する事と、『容疑者Xの献身』が本格推理小説の定義から排除されると考える事との間には、極めて大きな懸隔があります。「証拠に基づく論理的推理」の実態とは何かを、具体的かつ歴史的に考察することが必要だからです。
 まず、本格推理小説の「証拠」は、物的証拠に限るものではなく、刑事裁判で用いられるような証拠である必要もないことを確認しておきましょう。本格推理小説が紙の上での整合的な謎解きを目的とするものであって、現実の捜査や裁判の模倣でない以上当然です。要するに、読者がある程度納得するような推理の根拠、それが本格推理小説の「証拠」です。心理的なものや、行動が不自然だといったものも含まれる。又聞き証言のように確実性が乏しいものも、やはり証拠たりえます。ちなみに、『カナリヤ殺人事件』や『刺青殺人事件』などでの「心理的探偵法」は、ほとんど読者がともに推理を働かせる余地のない独断的なものでしたが、これも一般には本格の範疇に属するといわれています。湯川の人間観察はそれに似ているけれども、途中で彼がその見解を口に出して述べていますので、それ以降は、読者も湯川発言自体をひとつの手掛かりとして共有できます。
探偵役が犯人を指摘した後で、裏づけ証拠が発見される必要もない。さきほどのフェル博士の述懐が示すように、推理だけで、裏づけ捜査も犯人の自白もなしに終わる作例など、山ほどあります。逆に、あらかじめ読者に手掛かりを与えたフェアな推理こそ本格の身上だとすれば、推理の後で証拠が発見されても、それは何ら本質的な意味をもちません。この意味では、推理は推理のままで終わってよく、それ以上の確定は不要です。
他方、二階堂説も言うように、フェアプレイの帰結として、探偵が推理を示す際、読者がこれまでのページを思い返してみて、「ああ、あそこに手掛かりがあったのか」と思うような記述が求められます。ただし、どの程度のものが必要なのかという基準はありません。
(3) 「推理」の実態
問題は「証拠に基づく推理」の実態です。結論から言えば、「証拠から論理的に唯一の結論を導く」ほどの確実性を備えた推理は少ない。「証拠に基づく推理」といっても、実際には、何らかの証拠(事実)に触発された想像という程度のものがむしろ多いのです。また、真相の一部については証拠があるが、残る部分の推理は純然たる想像、ということも多い。本格推理小説における推理は、ひねった解釈や論理の暴走、一を聞いて万を知るたぐいの飛躍などをはらんでいるからです。
エラリー・クイーンの国名シリーズや悲劇四部作は、犯人を指摘するにあたって、物証を基礎に、極力飛躍を排した精緻な論理を展開し、積極的論証をなしとげている(ように見える)ため、日本では極めて高く評価されています。しかし、これは本格推理小説の世界ではむしろ稀な例であり、同時代のカーやクリスティーは異なるスタイルをとっています。また、国名シリーズそのものも、時代が下るに従って推理のスタイルを変えてゆき、『スペイン岬』あたりでは、物証をはなれたずいぶんアクロバティックな論理が展開されます。それゆえ、本格推理小説の普遍的な定義を考えるのであれば、初期国名シリーズのような特異な作例を基準にするべきではありません。むろん、こうした実情をふまえたうえで、これからは初期クイーン風の論証をめざすべきだという提言をすることは可能ですが。
(4) 想像と検証
そこで、実際に本格推理小説でよくみられるのは、探偵役が想像力を飛躍させて真相を決め打ちしたうえ、「そう考えれば、事実や手掛かりによく合致する」という形で補強をはかるスタイルです。仮説を提出し、それが手掛かりに合致することを確認してゆく、いわば仮説検証型です。読者が推理を聞かされてから、前に戻って手掛かりを見出すというのも、この仮説検証にあたるでしょう。また、一部分は直接証拠から推論し、残り部分は仮説検証型、といった複合形もよくみられます。
しかし、もともとこのタイプの推理は、真相の看破自体が直感的になされていること、そこに飛躍が入り込んでいることを否定できない。また、同じように手掛かりと整合する別の仮説がないとはいえない。つまり、手掛かりから論理的に結論を出しているというわけではない。
このタイプが多いのには、いろいろな理由が考えられます。本格のゲーム性が昂じて、何とか読者を出し抜こうとするようになると、しぜん地道に物証から推理するよりは、飛躍のある結論でおどろかせる道を選ぶことになったのかもしれません。また、推理の面白さという点からいえば、常識的な発想の裏をかくような逆説的論理や、飛躍のある推論がよろこばれ、名探偵は、証拠の常識的な解釈を軽んじ、警察的な地道さを嘲笑する、突飛で逆説的な発言をしがちである。
また、日本の本格ではトリックが重視されがちですが、トリックの解明には発想の飛躍が必要なので、どのようなトリックが使われたのかを証拠から直接割り出すことはむずかしい(皆さんご存じの密室殺人小説の中で、トリックの正体を証拠から直接推理した作品がどれほどありますか)。派手で複雑な事件になるほど、その全貌を証拠から再現するのが困難で、やはり、全体の構図を決め打ちしてかかるほかなくなる。
天才探偵対狡知にたけた犯人という設定だと、犯人の企みを直観的に見破ることに重点が置かれがちになるし、鮎川哲也、土屋隆夫ら、捜査小説と本格推理小説の複合したアリバイ崩しもの(本格です)では、中途まで地道に証拠を検討した上、最後のトリック解明で一気に飛躍するという流れになりがちである・・・まだあるでしょう。もっと根源的なところに理由がある気もします。これは、私自身にとって巨大な宿題のようなものです。
いずれにしても、こうした流れの中で、それぞれの作家が自分の推理スタイルを作ってきました。本格の定義を考えるのなら、その流れをよく観察してからでなければならない。そして、笠井、島田の両先達から新本格以降にいたる日本の本格も、このスタイルを愛用してきたのです。
むろん、これ以外の論証スタイルを作ることはできるだろうし、逆に、このスタイルの大枠の中で、作家たちの個性がどのように発揮されてきたのかにも注意しなければならない。しかし、ここでは、どのような推理が望ましいか、今後書かれるべきかを議論する必要はないでしょう。それは、別のところで、私自身の関心と必要に応じてやっていきます。
(5) 推理が正しいと認めるに足る証拠
ところで、二階堂説が、「前に戻ってその「推理」が正しいと認めるに足る証拠」が必要だといっているのは、このタイプにあてはまります。しかし、それは、原理的にいって、前の部分に書かれている「証拠」と推理が矛盾しないことを示すだけであって、推理の正しさを確証する(他の仮説をすべて排除する)ものではない。また、その実際的機能は、むしろ、読者に「こんなところに手掛かりがあったのか」という驚きを与えたり、手掛かりに対する解釈の奇抜さをみせつけたり、散らばっていたピースがひとつの巨大な絵柄にまとまる快感を演出したりするところにあります。
実際にどのような「証拠」が用意されてきたのかは、個々の作例に当たって考えてみる必要があるでしょう。ここで付け加えておけば、謎や矛盾自体が、一種「証拠」的に機能することがあります。たとえば、極端な不可能犯罪の場合、それを可能にするトリックが提示されれば、そのトリックが使われたことを特定する証拠がなくとも(たいていの作品ではそんな証拠はありません)、それが正解ということになる。あるいは、目撃者Aが「犯人は男だ」といい、目撃者Bが「犯人は女だ」と言っているような場合、なぜ食い違いを生じたのかを考え、それを説明するうまい仮説が発見されたとき、事件が解決を迎えるという風に。さらに、探偵が序盤、中盤で、現場の状況の矛盾を指摘しておいて、最後に犯人の秘められた狙いを喝破したとき、「あの矛盾は犯人のたくらみを示していたのだ」という形で裏づけをはかる推理もよくあります。
こうした従来の本格推理小説における「推理」のあり方からすれば、『容疑者Xの献身』における真相解明の手順が「本格」でないとは到底いえないのです。すなわち、名探偵が、事件に潜在する矛盾を指摘して、刑事たちの甘い見通しを覆すことや、「この矛盾に犯人のたくらみが秘められている」風の予告をすることは、まさに、これまでの本格推理小説の定番でした。結末において、まずトリックを明かした上、このトリックなら先に述べた矛盾は解消される、という論法で裏づけをはかることも、しばしば行われてきました。人によっては、もっと強固な根拠が欲しいと思われるかもしれませんが、それは説得力の強弱といった「程度問題」であって、本格かそうでないかなどという極端な差異をもたらすものではない。
(6) 実例の検討
要するに、本格推理小説のゲーム性が意識されるようになった時代から今日までの、大多数が本格と認めるような作品群を参照して、そこで展開されている推理が湯川のものと類似のパターンをなす、あるいは程度において五十歩百歩であることがわかれば、二階堂説の誤りは明らかになります。むろん、『容疑者Xの献身』がそれらの諸作品ほどは説得力がない、などということは問題外です。「本格でない」という断言のできないことが示されればそれで話は終わる。
といっても、ここで作品を詳細に分析するいとまはありませんし、過去の傑作の真相をばらしまくるわけにもいかない。そこで、本格史上無視しがたい作例を四つだけ挙げ、皆様個々の分析にゆだねたいと思います。
私が挙げるのは、『本陣殺人事件』『人形はなぜ殺される』『占星術殺人事件』『バイバイ、エンジェル』の四作です。オールタイムベストの常連といってもよい作品ばかりですし、後代への影響度からいっても選択に問題はないでしょう。これらが『容疑者Xの献身』と全く同じ推理パターンだというのではありません。そこにはまぎれもない個性的展開が認められます。また、『容疑者Xの献身』より手掛かりが充実しているところもあれば、犯人特定やトリックの核心がしっかり証拠で固められている作品もあるかもしれません。
大事なのは、それらを通して、「推理」にはパターンがあること、個性的、あるいは時代的な揺れや濃淡のあること、真相の主要部分が必ず証拠で固められているわけではないことなどが、おのずと浮かび上がるという事実です。もしも本格を定義するのなら、そうした揺れや濃淡を公平無私に受けとめる姿勢に基づいてなされなければならない。
たとえば、『本陣殺人事件』の核心部分である<犯人が自殺していること><凶器持ち出しトリック>について、どれだけ証拠があるでしょうか。金田一の推理は、奇怪な事件の全体を説明できる仮説ではありますが、証拠に基づいて推論しているのか、その仮説を確証する証拠は挙げられているのか、と考えればどうでしょうか。事件の夜に鳴り響いた琴の音の謎や<蔵書の中味>などは、トリックが明かされたとき、なるほど伏線だったのだな、と分かるものですが、読者が事前にそこからトリックを論理的に割り出すの無理だし、推理の正しさを事後に確証するに足る証拠ともいえない。『容疑者Xの献身』でいえば、湯川が途中で指摘する<衣服や自転車の矛盾>や<石神の試験問題>に相当するといってもよい。また、この事件の犯行計画は極めて特異なものですが、金田一はそれを<犯人と弟の異常な心理>から説明している。読者の推理可能性という面からは問題のある箇所であり、また、湯川の心理分析を思わせる箇所でもあります。
また、『人形はなぜ殺される』の犯人は証拠から特定されているでしょうか。神津恭介が明示的に挙げている推理の根拠は<被害者の残した暗示的メモ>であり、それは文字通り<暗示的>なものにすぎない。むしろ、この作品での推理は、「人形はなぜ殺される」「犯人のおそるべき意図は何か」という問いかけを呪文のように執拗に反復しながら、最後の真相暴露においてそれを強烈なカタルシスに変えてみせる、その幻惑的効果に依存しているといってよいくらいです。
『バイバイ、エンジェル』は、推理が詳細で証拠の分析も精密であるように見えます。しかし、細かく分析してゆくと、途中までは証拠に忠実な検討をしていながら、ある箇所で「想像」へと飛躍しているところがある。それは、名探偵の推理特有の飛躍です。また、二階堂説は、『容疑者Xの献身』における<石神の試験問題>を思わせぶりにすぎないと切り捨てていますが、そういってしまえば、矢吹駆の現象学的推理も、「人形はなぜ殺される」という問いかけの面白さも、すべて思わせぶりの一言ですまされてしまうことにならないでしょう。
『占星術殺人事件』で印象的なのは、御手洗がトリックを明かした後で、<死体の埋められ方>とトリックの照応関係を見事に説明する部分です。これはまさに、「前に戻ってその「推理」が正しいと認めるに足る証拠」が効果を発揮している好例でしょう。しかし、これもやはり、「この仮説によれば事件の矛盾点がうまく説明できる」というタイプの論証であることに注意すべきです。また、推理のどの部分に証拠があり、どの部分が想像に依存しているかも検討する必要があります。
3 おわりに
「作家や批評家は本格の定義を提出せよ」というような問題設定自体に、私は否定的たらざるをえません。本格推理小説は、誰か特権的な創造主が作り上げ、ルールを定めたものではありません。また、クイーンにはクイーンの、カーにはカーの、高木彬光には高木彬光の、個性的な謎解きのスタイルがあるように、本格の歴史とは、作家たちが、先行者や同時代人の影響のもとに、あるいは社会的、思想的基盤のうえに、それぞれ自分なりの推理小説観を展開してきた、そんな事実の堆積からなっています。
かつて千街氏が指摘したように、それは伝言ゲームの連続です。経験的に、その中を貫くぼんやりした本質の姿を直覚することはできるかもしれないし、個々の論者が、自分の掴まえたと信じる本質を論じ合うこともできるが、確固とした定義のような形で、ひとつの「正解」が出るものではない。本格も、本格の魅力も、簡単には掴みがたい謎です。
それをふまえたうえで、議論を提起し、挑発すること自体は、意味のあることですが、提起される議論の質が悪ければ生産性は望めない。二階堂説は、推理小説の歴史や、従来なされてきた議論・定義の試みを十分踏まえたものとはいえないし、まして、これまでの歴史に決着をつけるようなものではありません。議論のための仮説としても、大雑把過ぎ、それに取り組むことで有益な議論が引き出されるとは考えがたいのです。
 もっと程度の低い危険性もあります。定義を恣意的にいじくることで、意に沿わない作品を「本格」から排除し、あるいは、推理小説の中の嫌いな側面から目を背けることを正当化してしまうおそれです。主観的にその意図がなくとも、議論の仕方がずさんで、他人に厳しく自分に甘い傾向があるなら、おのずとこうした危険に陥ってしまうものです。
現在の本格推理小説は一種の混乱に陥っているように思われます。たとえば、本格の概念が拡散しすぎているのではないか、作家や評論家の評価と読者の評価が乖離しているのではないか、もっと「本格とは何か」を積極的に論じるべきではないか、といった意見が、数年前からネット上などで見られます。また、ファウスト系(呼び方はいろいろです)などの若い作家が出てくる一方で、横山秀夫氏の諸作品や、『硝子のハンマー』、『アイルランドの薔薇』、『審判』など(それぞれの作風は全く違いますが)、いわばリアリズム寄りの諸作品が、本格好きに高く評価されてもいる。
こうした動きは、批評家として率直に受けとめるべきです。しかし、受けとめるというのは、即座に何か「立場」の表明を試みることを意味しないし、そうした動向のいずれかに賛同したり、反対したり、一定の危機感で結束するといった反応を意味するものでもない。それぞれに観察し、考えること、これに尽きます。
また、こうしたここ数年の傾向が、『容疑者Xの献身』の評価にも関連していることは事実でしょう。だとすれば、この作品一個の評価だけをとりあげて、いかにもそれが大変な問題であるかのようにいうことは、かえって、事態を矮小化するものでしかありません。
私自身の批評活動が十分だとはいえません。力足りないところ、考え及ばないところも多い。しかし、それは二階堂説のいうような意味での不備ではないし、同じ土俵で弁解すべきものでもない。本格に限らず、推理小説は変容しながら生き延びてゆくものです。その変容を追いかけながら、同時に、「本格らしい本格」とは何かという問いにも答えてゆくには、抽象的な定義や原則で割り切るのでなく、あくまで個々の作品内容に眼を据えてゆく姿勢と、柔軟な身のこなしが必要です。私自身、まがりなりにも「本格とは何か」という問いに日々直面しているからこそ、歴史の堆積や多種多様な展開のありさまへの謙虚な省察を欠いた、安易な本質論、定義論は、議論のあり方を歪めるだけだと考えるのです。第一、面白い本格を求める読者の声にこたえるには、定義がどうとか、あれは本格じゃないなどというより、本格の面白さを多方面から解明したり、「こういう工夫をしたらもっと本格は面白くなる」という提言をした方がはるかに有益でしょう。

[以上]






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