探偵小説研究会の田中博氏より、2006年1月16日に、私への私信がありました。御本人の許可がいただけましたので、ここに公開いたします。最低一ヵ月間の公開となります。
【田中博氏からの私信】
「ジャンル」と「批評」のありかたについて
この文章では『容疑者Xの献身』が本格であるか否か……ということに関する具体的な分析は行いません(ちなみに、田中としては、『容疑者Xの献身』は本格であると考えています……理由は、以下の文章でおのずと明らかになると思います)。
1 ジャンルについて
まず、ジャンルというものについて考えてみたいと思います。「本格」というジャンルを巡って、過去にも色々な定義論争がありました。しかしながら、現状において、基本的にそうした定義論争は有効でない……と田中は考えています。「本格とは何か?」について、万人が同意する定義はありません。オレはこう考える……アタシはこう思う……それが重なるだけです。これは、本格に限ったことではなく、SFでもホラーでも同じだと考えます。
もちろん、そうした定義論の応酬の過程で、副産物的に成果が得られることもあるでしょう。今回も、『容疑者Xの献身』について、本格か否かという議論の中で、様々な読みの可能性が示されたわけで、その意味では有益であったと考えます。しかし、それは『容疑者Xの献身』について言えることであって、ジャンル論的には、極端な言い方をすれば不毛です。それは結論として「一つの定義」に収束せず、それぞれの論者(あるいは、論争の読者)は、自身の「本格観」を温存したまま、賛同するか/しないか――そうした分割を生むだけです。もちろん、二階堂さんも、そんなことは承知の上で議論を立ち上げたのかもしれません。
しかし、一部で、今回の二階堂さんの問題提起について、「押し付けがましい」という印象が生起したように思います。そもそも、基本的に自論を正当化する方向でしか議論は成立しないわけですから、論者は相手を説得したいという欲求に基づき「論争」的になって当然ですが、しかし、議論のスタイルとして色々なバリエーションというかグラディエーションはあると思います。我孫子さんが二階堂さんに投げかけたのは、基本的には、その問題でしょう。
二階堂さんの議論に「押しつけがましさ」(言い換えると)「オレの定義を受け入れろ」ということは書かれていなかった……田中としては、前述した「説得の欲求」に基づく「論争スタイル」の範囲内だと思います。自身の意見を素直に表明して疑義を呈した……ただ、それが「強制的」に読めてしまった……そこらへんが、多少、議論を錯綜させた面があったのではないかと考えます。
つまり、そういう状況なのです……ある一つの意見の表明、素直な解ってもらいたいという欲求が「押しつけがましい」という印象を生んでしまう。それが、現状の「ジャンル論」が置かれている位置だと思うのです。一般的に「ジャンル」という場合、生産者側と消費者側が出会う流通の力学の中で、なんとなく出来上がっているカテゴリー、イメージなのだと思います。つまり、そもそも「生」のままでは、「定義」などには馴染まないのじゃないでしょうか? それが必要とされるのは、文学研究の場面であるとか、党派的・結社的な宣言とか、特殊な場面でしょう。「本格」の場合、ファンやマニアの言説の応酬の蓄積があって、他のジャンルより、そうした側面に支えられてるところがある……ちょっと、特殊なジャンルかなぁ……とも思います。
しかし、以前、「本格ミステリこれがベストだ! 2003」の「『本格』と『批評』の現在」で書いたように、そうしたものも壊れてきた……という感じがあります。そうしたもの(定義云々)に固執することに、すでに、あまり意味はない……そうしたものが、抑圧的に機能するような(さらに、言ってしまえば有効に機能する)回路は失効していくのじゃないか……と思っているわけです。言い換えると、どんなに「正しい」「整合性のある」「素晴らしい」「過不足ない」――そんな“定義”を発見したとしても(そんなものが、あるとは思えませんが)、「あぁ、そうですか」ですんでしまう。 one of them でしかない。となると、正当性というか正統性よりも……過去の経緯を意識しつつも、どんな“定義”――というより“本格観”を持つことが生産的というか、批評的であるか? ということを考えざるをえません。その“本格観”を持つことによって、何を語るのか? 何を語りうるのか? 読者に何を伝えられるのか? というのが重要になってくるはずです。自論をナイーブに告白し、普及・布教していくのが批評の仕事ではないと考えます。
2 批評の役割
つまり、既存の権威も伝統的な評価軸も相対化されてしまうような場面で、いかに批評的言説が機能するのか? 実は、田中も悩んでいて、それは前述した「『本格』と『批評』の現在」あたりから(実は、もうちょっと前から)悶々といているところではあります。しかし、確実なのは、自身の「定義」あるいは「本格観」が one of them でしかない――という自覚は必要である……と考えます。
批評家とは何ぞや? みたいな話になってしまいますが(これも、一種の「ジャンル論」でしょうか?)、それは、けっこう屈折しているものです。田中が批評家の代表者ヅラするつもりはありませんが、前述した「屈折」について、少々具体的に書いてみます。
まず、立場みたいなものがあって、例えば『本格ミステリ・ベスト10』のアンケートの「お願い」を書く場合、一種の「運営側」的な立場で「皆さんが好きなように選んでください」というスタンスで書くしかない。一方、一投票者としては、そのセレクションの中で自身の本格観を示してやろうと考える。ベスト作品のレビューを書く場合には、それが何故選ばれたのか……という他人の事情に配慮しつつ、でも、やっぱり『煙か土か食い物』について「この先に『本格』の未来はない……と思う」と書いてしまう。場合によっては、自身の本格観を説明するために「シジフォスに朝はまた来る」(e-NOVELSに掲載されているので、興味があれば参照してください)を300枚くらい書いてしまう。
批評のスタンスは定義を定めることではない……もちろん「世間が本格と言っているから、これは『本格』です」というのはマズイ。たとえば、田中は、「シジフォスに朝はまた来る」で述べたような――ユルユルですが「本格探偵小説とは知的な探偵小説である」(正確に言えば、「本格探偵小説」とは「知」という側面から探偵小説を考えた場合に見出だされるジャンルである)という“定義”を持っています(フェアプレイ・ゲーム小説も、伏線を張った騙しビックリ小説も含まれます)。ただ、ベスト投票のような場面で、いちいち、それを陳述することは現実としてできません。しかし、問われたならば、それに答えうる用意はあるべきだとは思います。
もちろん、それが他人を説得できるかどうか? は恣意的なものですが、その“恣意性”に耐えうるスタイルを批評は求められています。前述した、曖昧なジャンルの輪郭――世間一般というか、世の趨勢というか、端的に言ってしまえばベスト投票の“結果”のようなモノとして、それは“ある”。そのことを、批評家は無視できるか? してはいけないと考えます。もちろん、それに違和感を表明してもいいわけですが、しかし、それに並行して、自身の定義(それは、信念とか好みではない)を見直す……少なくとも別の立場から眺めてみる作業は行わなければいけないと思うわけです。自身の定義を持ちつつ、それを世間一般の認知とのズレを前提に検証していくことが批評のスタンスであり、相対化の嵐の中で踊るのが批評なのだと考えます。
3 今回の騒動について
二階堂さんの問題提起について、そのターゲットは、『容疑者Xの献身』ではなく、それを選んだ選者(批評家? 研究者?)にあると、田中は感じました。今回、田中は投票を棄権しましたが、条件さえ整えば、おそらく『容疑者Xの献身』を上位にした投票をしていたと思います。その意味では、二階堂さんの問題提起に真摯に応えなければならない……HP上で反論すべきだったかもしれない……それをせずに、このような私信の形で意見を述べることになった経緯を説明させていただきます。
まず、前述したユルユル定義を持ち、かつジャンル問題にシニカルな考えを持っている田中と二階堂さんとでは、まったく話はかみ合わないでしょうし、それこそ不毛な議論にしかならなかったはずです。見ている側に“野次馬”的興味以外のものを提供できる見込みはありません。そして、二階堂さんが批評家に期待しているもの(おそらく、識者の客観的な審判としての役割――勘違いでしたら申し訳ありません)と、田中が批評家の役割としているものが違うんだろうなぁ……という読みがありました。つまり、出て行っても、お互い消耗するだけで、何の益もないだろう……ということです。
さらに、正直に言わせていただくと、二階堂さんの問題提起に魅力を感じなかった……ということがあります。確かに『容疑者Xの献身』が“どこでも”高い評価を受けていることについて、「それほどのものか?」という疑問は、理解できるような気がします。しかし、それについては、田中はビックリもしないし、巡り合わせかな……という程度で、「問題」とは受け止められませんでした(たとえば、『容疑者Xの献身』が昨年度に刊行されていたら、様子はずいぶん違っていたでしょう?)。また、その問題提起において二階堂さんが示された「本格観」も、どちらかというと旧来の本格ファンがとりうる一つのバリエーションとして理解でき、興味を引くものではありませんでした。
そもそも、田中みたいな奴が、ミステリ批評を書いてお金をもらえるようになったのは、綾辻さん以降の“新本格”が、以前の「本格観」を揺さぶりつつ台頭し、京極さんが追い討ちをかけ……業界が活況を呈していたことが背景にあると思います。その後も、メフィスト賞路線の定着とか、ライトノベル系とのクロスオーバーとか、「本格」は動揺を続けています。その経緯からすれば、「『容疑者Xの献身』は、分析してみると本格じゃないじゃん」という議論は、“小さく”見えます。あからさまに言えば、清涼院流水、舞城王太郎、西尾維新などより、『容疑者Xの献身』はずっと「本格」“みたい”でしょう? つまり、前述したような出自を持ち、そこで自身の「本格観」を検証してきた田中にとっては「無視していい」問題だったのです。田中としては二階堂さんの「『容疑者Xの献身』は、本格か否か」という挑発は、ナイーブにすぎるような気がして、出て行く気にならなかった……ということです。
田中は、e-NOVELSの“二階堂黎人特集”で、本格ジャンルの動揺を背景として、『新・本格推理01』の二階堂さんの文章をサンプルに、二階堂さんの本格観についての評価を示しました(昔の話で恐縮ですが、その頃から二階堂さんの「本格観」が更新されたようには思えません)。また、繰り返しになりますが、本格ジャンルの動揺について、「『本格』と『批評』の現在」を書きました。さらに、同じ「本格ミステリこれがベストだ! 2003」で、一般的には『容疑者Xの献身』よりも本格とみなされない(であろう?)『奇偶』(山口雅也)に関するクロス・レビューで、「『奇偶』は優れた本格だ」という結論を下しました。そして、そういう結論にいたる田中の本格観については、「シジフォスに朝はまた来る」で明示しているつもりです(当然、『容疑者Xの献身』は本格です)。
つまり、本格に関して二階堂さんが提示した問題については、ほとんどのことが、田中にとっては(あくまで田中にとって……ですが)解決済みというか、食指が動かなかったのです。
4 これからは、本当の愚痴
とはいえ、二階堂さんが提起された「ミステリ批評批判」のようなものに対しては……批評の沈滞という面からすると、このところたいした仕事をしていない田中としては一言もない。田中が「公の場」を、とりあえず回避した理由の一つとして……というより、おそらく、その最も大きな理由として、自身が、今、“現場”にいない……という感覚があります。今回も、ベスト投票を回避しましたし、ともかく、ミステリ批評の場面で自身がどういうスタンスで立てばよいのかがピシッとこないのです。そんな奴がノコノコ出て行く場面じゃないよな……と考えたわけです。
田中が、そんな状態になっていることについては、プライベートな問題が大きく、そんなことは言い訳にはなりませんが……小さい理由として、今まで縷々述べてきた「現状におけるミステリ批評の困難」があると考えます。二階堂さんの意見が、世の大勢を占めている――それがミステリの常識! というような状況であれば、きっと、ここぞとばかりに表に出て行った……かもしれません。しかし、今や、二階堂さんに限らず、新しい/古いの区別なく、様々な「本格観」が様々なルートで表明され、それが「本格」の輪郭を形作っている。「現代の本格観」VS「過去の本格観」というのではなく、それが「現代的」だろうと「過去的」だろうと、あらゆる「本格観」が等値されてしまうのが「現在」なのじゃないだろうか……正当性とか正統性を構築するメカニズムそのものが怪しくなってきている……
実は、心の奥底に“古い”本格観・ミステリ観(あるいは古臭い「文学観」)をくすぶらせている田中にとっては、正直、近年のミステリ界の動向は「なんだかなぁ……」という感じがありました。この頃、少し回復基調というか、そろそろ頑張らなきゃなぁ……という気持ちが強くなってきており、この文章も(内容は、何年も前に書いた文章の繰り返しで新味はありませんが)、その傾向の表れだと思います。皮肉に聞こえるかもしれませんが(つまり、これは皮肉ではありません)、こういう機会を与えていただいたことについては、二階堂さんに感謝しています。どうやら、笠井さんが乗り出し、ミステリマガジンで“論争”が展開されるようです。それが、田中の予想を裏切って、生産的に、大いに盛り上がることがあれば……それは、それで“良い”ことだと考えます。無責任なようですが、今後も、名指しされない限り、田中は出て行くつもりはありません。
これ以上、田中の愚痴を書いてもしかたありませんので、そろそろ、終わりにしたいと思います。もし、この文章を読んで、二階堂さんなりに何か得るところがあれば、幸いです。