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『奇跡島の不思議』について
「奇跡島の不思議」は、私が初めて本格的に《犯人当て》に取り組んだ推理小説である。従来から展開している名探偵・二階堂蘭子シリーズの場合には、ルパンや怪人二十面相のように、善玉対悪玉という図式の冒険活劇要素を含んでいるため、犯人はそれほど隠されていない。むしろ、絶対悪を描くために、悪人は悪人らしく行動し、登場する。それはそれでかまわないのだが、もちろん、意外な犯人を期待する向きにはカタルシスが少ないという批判も当然存在する。そこで、この作品を書くに当たっては、徹頭徹尾、論理的で厳密な犯人探しをやってみようと考えた。
物語は非常に単純で、大学生の美術家グループがある目的を持って、《奇跡島》という太平洋の海原に浮かぶ孤島へ船で渡る。そこには《白亜の館》という奇異な西洋館があり、滞在を始めた彼らの間で連続殺人が起こって、恐怖の渦中に投げ込まれるというものだ。つまり、《孤島》+《館》+《クローズド・サークル》+《殺人鬼》という、まさに本格推理小説の定番のような作品である。
登場する青年男女も、かなり本格推理にありがちなキャラクターとなっている。議論好きで激しやすく、また感受性も強い。設定上、ミステリーマニアというのはできるだけ排したが、それでも、事件を分析するための最小限の蘊蓄は披露される。
《孤島の連続殺人》というテーマは、推理諸説の世界では非常にポピュラーなテーマである。クリスティーの『そして誰もいなくなった』を筆頭に、近年では特に、綾辻行人『十角館の殺人』、有栖川有栖『孤島パズル』、麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』といった名作の収穫がある。しかし、知られているほどには作品数は少ない。それは、書く上で非常に難しい制限があるからだ。
舞台は孤島であるから、畢竟、周囲は果てし無く続く海原。殺人という恐怖が湧き起こる現場は、広義の密室状態にあり、誰にも逃げ場はない。閉鎖空間の中で、容疑者はおのずから限定され、容疑者も犯人も探偵役も、仲間の内に潜んでいる。物語の展開や犯人の意外性にも自然と枠がはめられてしまう(むろん、それが逆に不可思議とサスペンスを醸し出す点でもある)。その狭い領域の中でどれだけ強烈な謎や解決を案出することができるものか、如実に推理作家の腕前が試されることになる。
したがって、このテーマに手を染めることは、そうとう無謀な行為なのだ。下手をすると、見識ある推理小説の読者の前に無惨な屍を晒しかねない。だが、今回は、それが私のミステリー魂を奮い立たせたのも事実である。そのため、《本格》であることを強く標榜し、道具立の面でも正統的なものを揃えて、あえて《孤島もの》に挑戦してみた。
島田荘司先生が『本格ミステリー宣言T・U』を著してから、一般的にも、本格推理における《コード》とか《器》とか《装置》という観点にかなり注目が当たるようになった。私個人は、本格推理をクラシック音楽やハードロックと同じ様式美としてとらえているので、それらの要素も、単に執筆素材の一部にすぎず、本格推理の中に本格のコードが多用されるのは当然だと考えている。だから、蘭子シリーズを書く時には、あまりそれを意識したことはなかった。
島田先生の論では、コードの多用は作家を縛りつけ、本格推理の衰退にも繋がる危険があると危惧する。しかし、私はもっと楽観的である。何故なら、現状では――嘆くべきことだが、《コード》や《器》という推理小説作法上の道具を完全に使いこなす名工や名匠が少ないからだ。したがって、本格推理が腐敗したり自浄崩壊を起こすほど、その技法が敷衍していたり、形骸化しているとは今のところまだ思えない。
島田先生は《職人》は《芸術家》ではないという意見であるが、これについても私は意見を違えている。腕の良い職人が激減している状況の中では、《職人》であることそれ自体が《芸術家》としての資格を得ていることと同等だと考えられるからだ。
もちろん、自分がまだそうした名人の域に達しているとは思わない。また、本格コードに関する使いこなしの面での開陳は、多く自戒を込めている。だからこそ私は、いつか、世界最高の推理小説を書きたいという野望をいだき続けているのである。
『名探偵水乃紗杜瑠の大冒険』のあとがき
好事家のためのノート
名探偵・水乃サトルが活躍する初めての短編集である。と言っても、彼が活躍する本は、現時点ではまだ他に二冊しかない。「軽井沢マジック」徳間書店刊と「奇跡島の不思議」角川書店刊である。前者の事件は、この短編集と同じく、旅行代理店に勤めるサトルと美並由加理がコンビを組み、近い内に、「諏訪湖マジック」という新作が書かれる予定である。後者は、大学生時代のサトルを描いたもので、いずれ「宇宙神の不思議」という新作を発表できると思う。
筆者は今後、サトルの物語を、現代編と大学生編の二つに分けて書き続けていきたいと希望している。その場合、現代編は美並由加理嬢が、大学生編は武田紫苑君が相棒となるであろう。
なお、この短編集に収められた作品は、いずれも時系列的には「軽井沢マジック」から続くものとなっている。
『ビールの家の冒険』
題名から想像できた方もいるかと思うが、この短編は、西澤保彦氏の長編「麦酒の家の冒険」の本家取りである。山間の人里離れた場所に一軒家があり、その家の中がビールだらけであったという魅力的な設定は、西澤氏より拝領した。「麦酒の家の冒険」の中に、ビールに関することで一点だけ不満があり、その不満を解消する目的で執筆された作品である。
『ヘルマフロディトス』
日記に関するトリックは、某大家の某傑作長編を読んでいる時に思いついた。と言うより、そのように錯覚して読んで(推理して)しまったのだ。で、真相はぜんぜん違ったものだったから、遠慮なく自分の作品に使ったわけである。
『「本陣殺人事件」の殺人』
読んでもらえば解るとおり、横溝正史氏の傑作「本陣殺人事件」に疑問を持った点から派生した内容である。動機に関する不満は江戸川乱歩氏も述べているが、まったく同感だった。密室に関する疑問も作中に書いたとおりいろいろあり、また、欄間が家の外壁に設けられている点や、雨戸が庭に面して右(トイレのすぐ横)にある点など(左側の廊下の角にあるべき)、家屋の構造すら変だと思っている。
『空から来たる怪物』
島田荘司流奇想ミステリーのパロディ、というよりも、島田ミステリーを模倣して書かれた作品群を揶揄する目的で書いた。「何々が何々に見えた」という結論は直感的であり、演繹的な論理を重視する本格推理の立場から言えばあまり好ましいものではない。「何に見えるか」は個人的な視点に立脚するもので、けっして万人を納得させられるものではない。あのような作品を書くことが許されるのは、文豪・島田荘司氏ただ一人である。
『ユリ迷宮』のもう一つの後書き
迷宮から抜け出て――
『ユリ迷宮』という短編集には、名探偵・二階堂蘭子が活躍する三つの作品――「ロシア館の謎」、「密室のユリ」、「劇薬」が収められているが、内容的には非常にバラエティに富んだものになった。
「ロシア館の謎」は、シベリアの雪原に聳える石造の館がたった数時間の内に完全消失するというダイナミックな話で、トリックとプロットとストーリーが完璧に解け合った作品と自負している。自作の短編の中から一作選べと言われれば、躊躇なくこれを取る。光文社文庫の鮎川哲也先生編集の『本格推理1』に、「赤死荘の殺人」というディクスン・カーを贋作した短編を収録していただいたが、この「ロシア館の謎」は、国名シリーズに習った題名どおり、もともとはエラリー・クイーンが主人公であった。それを、立風書房の『奇想の復活』という書き下ろしアンソロジーのために、二階堂蘭子ものに書き改めたのだった。
実を言えば、文中のロシア語は、すべて鮎川先生の校閲を受けている。何故かと言えば、私が参考にした本が、すべて英語圏で出版されたものだったからだ。私は本の中に出てくる言葉をロシア語だとばかり思って引用したのだが、それはロシア語の英語読みにすぎなかったのである。よく考えみれば、ソ連崩壊前に、ロシアの内部事情に関する本がソ連の中から出るはずがない。当然、日本で読めるロシアの歴史書も、他国で書かれたものばかりだったわけだ。
「密室のユリ」は、東京創元社の『五十円玉二十枚の謎』というアンソロジーの一編に触発されて書いた。その作品では女流作家が密室で殺されているのだが、トリックそのものは書かれていない。であるならば、それを続きとして私が書こうと思った。こう述べれば、文中の女流ミステリー作家のモデルが誰であるかは自明であろう。
ところで、面白いことに、世の中には、「ロシア館の謎」のメイン・トリックを"凄い"と感じる人と"馬鹿げている"と感じる人の二種類が存在する。そういう意味では、これはミステリーに対する読み手の感性を試すリトマス試験紙となりうる。もちろん、前者は本格推理好きであり、後者は犯罪小説好きということになる。同様に、「劇薬」のようなクイーン流ロジックだけで全編をまとめ上げた作品も、わりと好き嫌いがはっきりする傾向にある。
『聖アウスラ修道院の惨劇』のもう一つの後書き
デビュー第2作
今回「聖アウスラ修道院の惨劇」を文庫化するに当たって読み返し、「これって、明探偵・二階堂蘭子がモロダーとスカリーの二人分をやっている、まるで『X−ファイル』じゃん」とか思った。
それはさておき、昨年このIN・POKETで、「地獄の奇術師」に関しての思い出を書いた時、私には、「地獄の奇術師」と「吸血の家」の二作品のデビュー作が存在することを述べた。そうすると、この第三番目の長編「聖アウスラ修道院の惨劇」は、デビュー第二作に該当することになる。一般的に言えば(ことにミステリー作家の場合)、第二作目の作品は試金石となり、その作家の力量を問われる場合が多い。実際の話、読者としての私も、デビュー第二作がおもしろくなかったり、力が抜けていた作家の小説は、その後あまり読むことがない。
では、そういう観点から評価した時、「聖アウスラ修道院の惨劇」はどうだったか。自分で言うのも何だか、かなり良い仕事をしたのではないかと自負している。大学時代に蘭子シリーズを頭の中で反芻しながら考えていた頃、あの結末のひらめきを得た時には、まさに狂喜乱舞の状態になった。執筆中にも相当の手応えを感じたし、驚愕の謎≠書き上げた時の感激と充実感は今も忘れることができない。
私は、推理小説を傑作にする条件の一つとして、次のようなものを想定している。すなわち、作中の謎とそれから導かれる解決は、物語の登場人物を驚かすと同時に、読者をも同量以上に驚かさなくてはならない。その意味では、この結末は、多くの読者を相当のカタルシスへ導くだけの力があるだろうと、希望的観測をいだいている。
今述べた点も含めて、「聖アウスラ修道院の惨劇」は、いろいろな点で私に自己満足を与えてくれる作品である。その中でも最たるものが、作品の構成経過にある。この物語の出発点は、ただ単に《塔上の密室からの転落死》という着想にあった。私は、一個の密室トリックを発明することを出発点とし、その周囲に舞台と状況を設置し、人間を配し、様々な事件を展開させて、順々に物語を膨らましていったのだ。
こうしたまず結末ありきという書き方は、多様な小説ジャンルの中でも、ほとんど推理小説特有のものである。逆に言えば、それが《本格》の証であり、勲章でもあろう。
『地獄の奇術師』処女作の頃
どんな推理小説作家も同じかもしれないが、私も、自分自身で読みたいものを書こうと思ったのが、この『地獄の奇術師』や『吸血の家』を戦筆したきっかけである。
具体的に言えば、世間を騒がす大事件、邊惑的な秘密、考え抜かれた構想、奇抜なトリック、論理的な謎解き、アクロバチックな結末、悪魔のような犯罪――こんな要素に満ちた物語で、しかも、奇矯な名探偵が活躍すれば、なお好ましい。
綾迂行人氏の出現以降、日々、出版されるミステリーの内容もだいぶ多様化したが、かっては、犯罪風俗ものやトラベルものばかりが店頭に並び、個人的には悲しい状況だった。売っていなければ、自分で書くしかない、そんな切迫した気持ちもあった。
そして、書き上げた作品は、乱歩の通俗冒険に、本格推理の織密な手がかりを盛り込んだ新機軸だと、若干の自負を持てた。
とは言え、本格推理が標傍する論理性と、探偵小説が標傍する冒険性は、意外と相性が悪い。エラリー・クイーンのごとく、結末で演緯的推理を延々と展開すると、物語の軽快な流れを中断することになる。一方、乱歩やディクスン・カーのような怪奇冒険ものの場合、探偵は、物的証拠の有無にかかわらず、直感的に推理を語らざるを得ない。ちゃかした言い方をすれば、探偵がモタモタ説明を加えていたら、行動的な敵=犯人にさっさと逃げられてしまうのだ。 したがって、蘭子ものの執筆にあたっては、その二律背反をどう両立させるかで、私はいつも楽しい苦労をしている。
ところで、『地獄の奇術師』と『吸血の家』、どちらが私にとっての処女作と呼べるものなのか。一応の文章になり、作家になる機会を与えてくれたのは『吸血の家』だし、実質的に本という形になって世の中へ出たのは、『地獄の奇術師』が先だ。わざわざこんな些末なことを気にするのは、どちらも長いこと心の中で温められていた物語なので、格別の愛着があるからだ。
読者の声からして、『地獄の奇術師』を推すものもあれば、『吸血の家』を推すものもあり、人気の面でも勝負が付かない。前者では島田荘司先生に「薦」を、後者では鮎川哲也先生に「解説」を頂戴した。だから、私には処女作が二冊あるのだと考えるならば、これほど幸福なデビューをした者は他にはいないだろう。
『吸血の家』が伝えるもの……
小学校5年生の秋のことだが、国語のドリルを自習していると、例題文として、谷崎潤一郎の『細雪』の一節が出てきた。下巻の4という所の、雪子や姪の悦子らが田舎で蛍狩りをする場面である。ここの文章の一部には、夢幻的な雰囲気を出すために技巧的な手法が用いられており、地の文と会話が渾然一体となった風変わりさがあった。出題の方は、「これは何を意味しますか」とか、「作者は何を考えていますか」とか、いかにも文部省的で下らない内容だったけれども、例題文にはいたく感動した。私はさっそくこの『細雪』なる小説を本屋で探してくると、無我夢中になって読み耽った。それが谷崎文学との最初の出会いであり、『細雪』は、私の《生涯の本》の1冊に即座に加わった。
実を言うと、その少し前の夏休みに、私は石川県の金沢に住む伯母の家へ遊びに行き、田圃の上に乱舞する無数の蛍を見たばかりだった(だが、翌朝、農夫が田圃に農薬を撒いたところ、無惨なことに、次の夜から蛍は1匹もいなくなった……)。蛍を見た夜の美しい光景が脳裏にあったせいか、最初は、『細雪』の該当箇所にもあるとおり、「……でも蛍狩りと云ふものは、後になってからの思ひ出の方がなつかしいやうな」という気分でこの小説に惹かれたのである。しかし、最後まで読み通してみると、ただ単純に、美しい姉妹の物語という基本設定に深く魅了されている自分を発見した。
何故、それほど私が『細雪』に愛着を覚えたかと言えば、たぶん、自分に女性の兄弟(姉妹)がいなかったせいだろう。しかも、私は長男だったので、小さい頃から姉が欲しかったのだ。弟の身である私が優しい姉に可愛がられる――そんな場面に憧れていた。だから、心の中で、年上の女性や姉というものをずいぶんと美化していたと思う。その美化された心象風景がこの小説の中に存在し、写実的に描かれているように錯覚したわけだ。特に、雪子や妙子といった若い姉妹には、身近な姉の実在を強く感じたように思う。
そのような訳だから、将来いつか小説家になれたら、きっと、美貌の姉妹ものを書こうと心に誓っていた。当然それは、華やかで、優美で、儚いような文学作品となるはずだった。なのに、書き上げた『吸血の家』という作品は、怖く、醜く、恐ろしい殺人物語になってしまった。それは私が、子供から大人になる内に、自然と、女性の本質の何たるかを知ってしまったせいかもしれない。
『吸血の家』という作品は、まず第一義的に、ディクスン・カーの『テニスコートの謎』に出てくる足跡トリックに挑戦した本格推理小説である。それは間違いない。けれど、そのおどろおどろしい話の中には、横溝正史が『本陣殺人事件』や『獄門島』などで如実に描出した一昔前の《日本人的なもの》が脈々と流れている。家系にまつわる宿命と、名家の崩壊という膿んだ血が……。
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